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不登校体験記#01 8年間、不登校だった私の話

サムネ

こんにちは
こなつと言います。
2003年生まれの20歳です。

私は小中学生のころに不登校だった経験があります。
今は、フリースクールでスタッフをしていますが、苦しかったあの頃は、自分が大人になれるとは思っていませんでした。

不登校を経験したからこそ感じたこと、苦しかったからこそ今の私で生きていられること、自分の過去から学べたこともあると思っているので今苦しいと感じている子ども達に見てもらえたらと思います。

小学2年生から中学卒業まで学校という場に
良くも悪くも、、いや、悪くはなかったので
良くも苦しくも?
向き合い続けた約8年間の体験を綴ってみます。

目次

  1. 学校で感じていた違和感と東日本大震災
  2. 「学校に行けない自分」を否定していたあの頃
  3. 劣等感
  4. 憧れていた「普通」に出会えたあのころ
  5. ただ「普通」になりたかっただけなのに
  6. 最初は行きたくなかったフリースペース
  7. 中学卒業後のわたし
  8. 今のわたしがいるのは、あの頃のわたしが頑張ってくれたから

1.学校で感じていた違和感と東日本大震災

小一

自分で選んだピンクのランドセル。
小さい体に少し大きなそのランドセルを背負って
私は小学生になりました。

学校に行くと高学年のお姉ちゃん達が遊んでくれて
帰ってきたら友達と遊んで、習い事に行って、
何気ない「普通」を過ごしていました。

でもその「普通」の日々の中にも、
少しずつ黒いモヤモヤしたものが積もっていきました。

例えば
軽いいじめのような出来事があったり
集中力が長続きしなかったり
小さなことから大きなことまで、
一番大きかった出来事は、
東日本大震災。

帰りの会が終わる頃でした。先生が、

「あれ?地震かな?」

と言った次の瞬間、机にしがみついていても
体が大きく揺さぶられるような揺れが来ました。

生徒全員が校庭に避難をして、しばらく経った頃
お母さんや、お父さんが迎えに来る子達を見て

「早くお母さん迎えに来て。」

と思いながら
寒くて怖くてただ泣いて迎えを待ちました。
でも迎えは来なくて、早くお母さんに会いたくて
泣きながら歩いて帰りました。(途中でおじいちゃんには会えました。)

その時の母は、まだ小さかった妹と弟の迎えに行っていて
私のことを迎えに行けなかったのです。

その日が大きなきっかけになり
お母さんと離れる事も怖くなって
なんとか行けていた学校でしたが、

小学2年生のゴールデンウィークが明けに
私はついに学校に行けなくなりました。

2.「学校に行けない自分」を否定していたあの頃

こなつその2

「一緒に学校行ってみる?」

その母の一言で渋々登校しました。

一緒に教室に行ったり
保健室で過ごしたり
遠足に行ったり
教室で給食を食べたり
運動会に出たり

楽しい時間もありました。

けれどその一方で
朝から「行けない」と泣く日もあったし、
行ったは良いものの
「やっぱり行けない。」と
泣いて車から降りれない日もありました。

ある日、先生が車まで迎えに来たときがありました。
心臓がドクっと鳴って、涙が止まらないあの気持ちは
今思い出してもほんの少しだけドキッとします。

けれど、試行錯誤しながらなんとかして「学校」に
戻れるようにならなければいけないんだと
当時は強く感じていました。

教室で過ごしたり
別室で過ごしたり
色々ありながらも2年ほどが経ち
小学4年生になった時に

私は一番のどん底に落ちていました。

もしかしたらこれを読んでいる方の中にも同じような経験をしたことがある子もいるかもしれません。

この記事では、わたしの人生で起こった苦しかった事や、葛藤、気付き、を割とノンフィクションでかけていると思っています。(笑)

結構ボリュームありますが
読んでいる子ども達、保護者に
よりリアルな体験を伝えられたらと思っています。

3.劣等感

誕生日

小学4年生の夏休み前までは
宿泊学習に行ったり
教室で過ごす事が多くなって
なんとか頑張れば順調に過ごせていましたが、
夏休みに体調を崩したことをきっかけに
なかなか長時間学校にいられない事が増えていきました。

2年生の頃とは少し違って
また学校に行けなくなってしまった私は
「私には価値がない」
「私は何も頑張れないダメな子」

そんな思いが強くなり
体調不良と重なり、ご飯も食べられない日が増えました。

二学期が始まった頃のあの日を境に
私はゆっくりとどん底に沈んでいきました。


重たい身体を動かしてあいさつだけでも、と
学校に登校しました。


すると先生から

「みんなは頑張っているのになんでこなつさんは頑張れないの?」
「いつまでこんな事続けるの?」
「甘えすぎだよ。」

その時はなぜかわからないけど
たくさん涙が出ました。
家に帰る車の中もずっと涙が止まりませんでした。

「先生の言っている事が正しいんだ。
私は周りの友達と違ってダメな子。
生まれてこなければよかったんだ。
私が生まれてこなければ家族ももっと幸せだったんだ。」

「ご飯も食べられなくて身体が弱っていくのは自分でも感じる。死ぬのかも、と思うと
それは怖い。だけど早く楽になりたい。」


そんなふうに考える事が増えて
だんだんと体重も落ちていって
鏡を見るたびに細く弱くなっていく自分を見て
ただ悲しくなって


「またお母さん悲しませちゃうかな。」


そんなことを思いながら
毎晩体重計に乗って
18kg という表示された数字を見つめて、
母に「ちょっと体重増えてたよ」と小さな嘘をつきました。


そんな小さな嘘をついて
親の悲しみを減らそうと努力しても結局は

「どんなに苦しくても学校に戻らなければ、
『普通』になれない私には価値なんてない」


と、この時の私は思っていました。

一転。このあと私は「学校が楽しい」と思う日々を送るようになります。

ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
今になって自分で振り返ってみて感じます。
小学4年生で18キロって大変だよね。 相当追い詰められていたんだなぁって。
正しさって人を守る為にあるのに その正しさに傷つけられていたのだと
後になって気づいた。 けど、きっとわからなかったんだと思う。
どこまで頑張ったら良いのか。
「まだ頑張っていない、まだダメ、もっと頑張らないと。」
そんなことを思う日々を重ねていたら いつのまにか死にそうになるまで
がんばっていたんだと思う。 けど、一番は命が大切。
学校って死にそうになってまでいく場所ではないよね。
でも、苦しい時ってなかなか難しくて、どんどん自分で追い込んじゃったりする。
だからこそ、苦しいって感じているあなたに私は伝えたい。
「何も悪くない、もういっぱい頑張ってるよ。あなたが生きている、それだけで良いの。本当に。」

ここまで苦しいシーンばかり書いてきていますが、次の章を読んでもらえれば
いったん話しは落ち着きを取り戻しますので、もう少しお待ちください笑

4.憧れていた「普通」に出会えたあのころ

ミズタマリオープン準備

小学4年生でどん底に落ちた私は、
その後少しずつ少しずつご飯が食べられるようになって
学校にも短時間だけ登校したりして
一学期の中盤で大分元気になる事ができました。

友達と遊びに行ったり、
クラスが好きになったり
運動会が楽しかったり。
一年前と比べると笑顔になれる時間が増えました。

そして小学6年生になると、
一日教室で過ごすようになって
毎日楽しいと感じながら学校に通っていました。

死ぬほど辛かった二年前を思うと
この時はすごく楽しくて、楽しくて


「あぁ、みんなが言っていた普通ってこの事なのか。」

「普通って幸せすぎるなぁ。」


子どもらしく思いっきり笑ってはしゃいで
夜ご飯の時には学校であった事を話して
給食もおかわりして、、(食べれなかった時期を取り戻す勢いで爆食していた)
私が思い描いていた小学生を過ごせる毎日でした。

ですが、夏休み明け身体が持たず
夏休み明けから別室に通うようになりました。
中学校への不安や、
また教室に行けなくなってしまった悔しさ、
いろんな感情がありながらも、
楽しいと感じられる事もあり
無事卒業式を迎えて、笑顔と涙で小学校を卒業しました。

今思うと、生き地獄のような数年を
楽しい思い出で上書きさせてくれたのかなって思います。

小学校の思い出を話すたびに
「いろいろあったけど楽しかった」
と、思う事ができるのは
とても幸せな事だなって感じるのです。

そしていよいよ中学校へ入学。
始まるまでは不安ばかりでしたが、
いざ入学してみると
友達もできて、先生も優しく、
中学校自体もとても理解してくれる学校でした。
夏休みまでは教室に通って、部活もやったりして
休みながらも、なんとか通っていました。

ですが、夏休み前になるとどんどん体がついてこなくなって、
夏休み明けに完全に学校に行けなくなりました。
中2のときも同じで、最初は頑張って行く
けれどまた、夏休み前に行けなくなりました。

5.ただ「普通」になりたかっただけなのに

中学生ふく

小6の時が楽しかっただけに、
中1中2の学校に行けていなかった期間は、
自分への失望感や苛立ち、
自分と周りを比べて
ただただ劣等感を感じて、
「どうして私は頑張っても頑張ってもみんなと同じになれないの。」
「普通になりたい」

普通になりたい、いや、ならないと人生終わる。普通にならなきゃいけない。
そんなふうに考えていました。

普通になりたいと周りと自分を比べ
毎日劣等感でいっぱいの私と、
家の外から聞こえる下校中の同級生達の声。


「私、生まれてきてよかったのかな。」

お母さんと、お父さんが思っていた子どもと違うだろうな。

「人生終わりにしたい。」


生まれてきたことに罪悪感を感じ
今生きていることに罪悪感を感じ
ただ同じように毎日が過ぎていく。

そんなある日、母から
「このフリースペース見学行かない?」
学校以外の居場所を見せられたのです。

最初は、とにかく嫌で、
学校に戻ることしか考えていなかった私に
何度も何度も根気よく誘ってくる母、
毎回断り続ける私。

そんなある日
もう聞き飽きた「見学行こうよー。」というお誘いの言葉が。

そこで私は

「あ、一回見学に行けばもう誘ってこないんじゃない?」

と思い見学に行くことにしました。

この時見学に行っていなかったら、
今の私は絶対にいない。
と言い切れるほど、
この時の決断が大きなきっかけになるのです。
この時の私は知らないだろうけど。

中2の頃は 思春期とか反抗期って事もあって、
壁を殴ったり、親に反抗する事もあったし、大声で言い合いもしたし
なんでわかってくれないの?って毎日のように言っていた。
(今は仲良しです。笑 お母さんごめんね笑)
けど、読んでてわかるように「普通」に囚われていて なんか、
もうそれってもはや普通じゃないよね?って思う。

普通とか幸せとか、追いかけても追いかけてもなれなかったのは
なるものじゃなくて、
気がつけば、そこにあるものだって気づかなかったから。


けど、気づけないんだ。
辛い時ってほんとにわからなくなっちゃうんだよね。
今だって気づいたら「普通は」って考えちゃってる事もある。
けどそれで良いし、そんなもんなんだと思う。
今見えなくてもいつか見えてくるものとか気づく事があって、 それが見えた時に、
「あぁ、こういう事だったのか。」 って気づけたりするんだよね。
だから全然自分のペースで大丈夫。

この辺りで、辛くて暗い不登校時代はいったん終わりです。
長いですね、結構。 読んでくださってありがとうございます。
ここから、どうやって今の自分に繋がったのかを次の章で書いていきます。
乞うご期待(笑)

6.最初は行きたくなかったフリースペース

こなつ海ジャンプ

中学2年生の秋
私はフリースペースの見学に行きました。

第一印象はただびっくり
ここにいる子たちは、なんでこんなに楽しそうなんだ?
私と一緒で学校に行けなかったりするんだよね?
通っている子達が楽しそうで

暗そう、楽しくなさそう、
というマイナスイメージで
頭がいっぱいだった私の考えが
フワッと崩れていきました。

私は、更にそこのスタッフさん達にも驚きました。
注意されるのかな、
また、あなたが悪いって言われるのかな、と
正直少しビビっていたのですが

注意やお説教することはもちろん
無理に悩みを聞き出す事さえもしないで、
ただお茶を出してくれて、私が話し始めたら
ただただ頷きながら話を聞いてくれて。

否定されなかった事に安心して
泣けてくるくらい嬉しかったのを覚えています。

そして、ここに通いたい。と親に言いました。
初めは嫌々見学に行ったはずなのに、
自分でもかなり予想外の結果。笑

そして中学3年になると同時に通い始め、
そこで過ごした毎日は、とても楽しくて、
そこで過ごした1年間という時間が
自分と向き合って、考えて、とても大切な時間だった
心から感じています。

スタッフさんと友達とお茶しながら話す時間も
犬の散歩にみんなで行く時間も
体育館でバスケしたり
バンド練習する時間も
そこに通って自分とちゃんと向き合う時間が増えて、

自分は自分のまま生きていくのも案外いいかも。
私だからできることがもしかしたらあるのかも。

私は、そんなふうに考えるようになっていきました。

7.中学卒業後のわたし

こなつジュースを持つこなつ

そして高校は通信制の高校に進学しました。

通信制高校は不登校を経験する子たちも
多く通うということもあって
受験は難しくありませんでした。

比較的簡単な試験と、面談があって
小2から不登校・行き渋りの私にも
問題なし。(笑)

実際に入学してみて

もちろん、楽しそうに通っている子もいました
一方私はというと、
理由はイマイチ自分でも分かっていませんが
学校のトイレで泣き、朝は足がすくむ。

ご覧の通りなかなか上手くいかず
結果は1年生の終わりに自主退学。

このまま3年間通う事が全く想像できなかった事と
高い学費を払ってもらっているのに、このままでいいのかな
他にも色々理由はありましたがそのあたりが大きな理由でした。

もちろん、学歴的には中卒になるわけで
高校中退?高校くらいは出ないとダメでしょ?
そんな声がたくさんある事も重々承知していたし、
自分が困るんだ。それでもいいから辞めます。
と当時の私が納得した上での退学でした。

高校を辞めた後も、新たな事にトライしては挫折しそうになったり
自分の全てを否定されて、こんな自分が生きて良いはずがない。と
悔しさ、罪悪感を感じて、毎日泣く事しかできなかった日もありました。

きっと
高校を辞めるなんてお先真っ暗だ。
こいつ人生終わってるな。って思う人もいるんだと思います。

そう思う人がいて当たり前だと思っているし
高校は出ておいて損なんてないし、行けるなら行った方がいいと思います。

けれど、私は後悔してないんです。
今まで起こった事全部。

もれる事なく全て経験してこられて良かったと思っています。
だから、簡単な事じゃないのかもしれない。だけど
「この経験があったから」
と思える生き方をしようと決めたのです。

8.今のわたしがいるのは、あの頃のわたしが頑張ってくれたから

おはよう日本出演

少し昔は、あの時もっと踏ん張って学校に通っていたら、とか
あの人にあんなこと言われなければ、とか
過去を振り返っては、“たられば”と後悔ばかりしていました。
(そんな時があっても良いんです。良いって事にしてます。笑)


だけど、
ここに来るまでこんなに山あり谷ありで、
人一倍普通になりたかった私が
いわゆる普通というレールとは全く違う道を進んできた。
でも、だからこそ
そんな生き方と、今までの経験からの思いが
役に立つ、そんな生き方をしたい。と今は思っています。
そして今の仕事ができている事を、
すごくすごく嬉しく思っています。
そしてたくさんの人への感謝も。

お父さんは、高校辞めたいと言った時
「ちゃんと考えて、こなつが決めたならそれで良い」
と言ってくれた事

お母さんは、たくさんぶつかって、喧嘩もして
それでもいつでも味方でいてくれた事
今は、一緒に仕事をできるくらい横の関係でいられてる事

他にも、学校の先生、フリースペースのスタッフさん
中学生の時から私を1人の人として見てくれて仕事に誘ってくれた人。

みんなに感謝しています。
沢山のありがとうでいっぱいです。

そしてあの頃の自分に伝えたいことは

何年かかったのかわからない。
けど
今の私が笑っていられるのは
あなたが、死にたいと思いながらも生きていてくれたから。
だから今の私がある。
何一つ無駄じゃなくて
全部が宝物みたいな経験なんだ。

生きててくれてありがとう。

いっぱい泣く日もあるけど、
もう来ないと思っていた
心から笑える毎日を20歳のあなたは生きているよ。

今、胸を張ってそう伝えられます。

ここまで読んでくださった方
本当にありがとうございます。
ここまでの私の人生をぎゅっと、纏めたつもりでしたが
こんなにも長くなってしまいました。

こうして書いてみると、
人生って一筋縄では行かないなと感じます。
ほんとに、なんでこんなに難しいんだろうと思います。

実際は書ききれないところもあるし、
まだ20年と少ししか生きていないのですが、、、笑

きっとまだ人生のうちの4分の1くらいなのかな。
生き急ぐことはないし、ゆっくり味わっていけば良いのだと思う。
面白い事も、悲しい事も。
ポジティブでいないといけないって事もないし、
人生にはこうしなきゃって正解もない、
この世に生きる人はみんな人生1回目なんだし。
焦らなくても大丈夫。
私だけの、あなただけの生き方がきっとある。

こなつ成人式

「8年間不登校だった私の話」