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不登校体験記#02 「みんなと同じようにできなくても大丈夫」不登校児だったわたしを受け入れられるようになるまで。

どうしてみんなと同じようにできないんだろう。

過敏性腸症候群(以下IBS)の症状によって、50分の授業に参加することが苦痛だった高校1年生のわたしが、心の中で何度も叫び続けていた言葉です。

その後、死にものぐるいで学校に通い続けて1年弱。目覚ましの音だけでは起きられなくなっていたわたしを毎日起こしてくれた母に、もう学校には行けないと伝えました。それは自分が見ている真っ暗闇の世界とは違って、生命力溢れる新緑が美しい季節のことでした。

この命を手放せば苦しみから解放されると、橋から身を乗り出した夜を越えたのち、一筋の希望にかけて海外へ旅立っていくこの物語のはじまりは、幼少期までさかのぼります。

幼少期から敏感だった「トイレ事件」

”どうしてみんなと同じようにできないんだろう?”

初めて感じたのは、幼稚園バスの中。

不運な出来事が起きる幼稚園バスには、もともと苦手意識がありました。隣の子がわたしの足元に吐き戻したり、衣類の繊維が目に入ったり、バス独特の匂いで気分が優れなかったりなど、バスでの苦い記憶がうっすらと残っています。そうした体験から緊張していたのだと思います。バスに乗っているとトイレに行きたくなった日がありました。

先生はわたしを後方に連れていき、他の児童に向かって「後ろを見ちゃダメだよ。」と呼びかけます。この言葉を聞いた何人かの児童は、反応して後ろを振り返るのです。バスに揺られながら、視線を感じながらバケツに用を足そうとしても、緊張から何も出ませんでした。

幼少期から敏感だったわたしは、幼いながらも自分の感覚や身体は人とは少し違うのかもしれないと気づいていました。異変を感じてはいたものの、当時は自分の気持ちを伝えるのが苦手で、バスでの出来事を自分から両親に伝えることはしていなかったようです。

この「トイレ事件」は数回続いたようで、先生の計らいで両親に伝えられ、毎朝、母がわたしを自転車に乗せて幼稚園まで送り迎えをしてくれるようになりました。

理解のある先生と友人の存在に救われた

中学生になると友達の影響でバスケ部に入部し、伸びるかもしれないと期待していた身長が一向に変わることのなかったわたしは、背の順ではいつも前の方。体育館で行われる全校集会では前方に1年生が、後方に2,3年生が並びます。2年生だったわたしは体育館の後方の前方、つまり体育館の中央にいました。

 体育館の真ん中で四方を他の生徒に囲まれての体育座り。静かに先生の話を聞かなければならない冷ややかな朝の時間。次第に不安がこみ上げてきます。

お腹が鳴ったら周りの人に聞こえてしまうのではないか…

トイレに行きたくなってその場を離れれば目立ってしまう…

この緊張や不安感がストレスとなり、腸に作用してしまうのです。中学時代からは、緊張からお腹にガスが溜まるIBSの症状に悩まされることとなりました。

体育館の後方で参加することを担任の先生に許可してもらい、似たような悩みを持つ友人と隣になって参加。大人数の場所で離れることができない時間は、自身が存在している空間全体を把握できる場所にいると気持ちが落ち着きました。教室では後ろの席が居心地がいいと感じていたのも同じ理由です。

理解のある担任の先生に恵まれ、対策をとれたことで症状は軽症かほぼ治まっていました。

勉強と学歴主義の高校時代

中学3年生で部活を引退し、夏休みが終わった初秋、入塾した先で塾の先生からは志望校に受かる見込みはないと言われました。高学年になると部活・友人・恋愛で充実した時間を過ごし、勉強は適当にこなしている程度だったからです。

無理だと言われたことがエネルギー源となり、勉強を最優先にして取り組みました。友人も勉強を頑張っていたことも励みになり、休み時間には一緒にふざけたり食事をしたりすることで、ストイックに勉強をしつつも息抜きのバランスがとれていたように思います。

猛勉強の末、無理だといわれた高校に無事合格したわたしは、頑張れば頑張るだけ報われる勉強の虜になり、高校入学直後の模試のために春休みを返上して勉強していました。

当初は第一志望に合格することが目的だった勉強でしたが、受験をきっかけに学歴主義へと変わっていったのです。テストの点数を上げることが至上命題だったので、高校入学後は部活に入らず、難関国立大学合格のために勉強に精を出します。

勉強がわたしの人生すべてで、学校の成績が自尊心の源でした。

自尊心を高める場所が生き地獄に

とある日静かな授業中、IBS(過敏性腸症候群)を再発させる出来事が起こります。中学時代からコントロールできていたお腹のガスが音を立てて外に漏れてしまったのです。そう、おならです。手先が震え冷や汗が止まらず、心臓の強い鼓動が全身を打ちました。

やってしまった…。

状況を冷静に受け入れることができず、この世の終わりと思うほどまで絶望しました。

この日を境にわたしにとっての教室は、幼稚園時代のバスや中学時代の全校集会の体育館のように緊張や不安の場であり、最も避けたい場所となりました。ストレスフルな場所に、1日に50分の授業を6回程。そんな毎日繰り返すのはわたしにとって生き地獄でした。

朝起きてから学校が終わるまで、今までに加えて新たな症状までも、教室以外の場所でも、現れるようになります。

起床後、学校に行かなければいけないストレスでお腹を下し、食事を摂るとまた下すので朝食は少量口にするだけ。しかしまたトイレに駆け込まなければなりません。通学途中も自転車を降りて、コンビニや最寄駅のトイレに引きこもる始末。休み時間はほとんどトイレで過ごしていました。

いつトイレにいきたくなるか分からない不安や、症状を出にくくするための行動制限、症状をやり過ごすために、ただただ耐えていた授業中。これらは命になんら別状ありませんが、毎日繰り返されることで次第に精神的がすり減っていきました。

周囲に当たり散らしていたけど、SOSを出していたつもりだったんだ

だれにもわたしの気持ちなんか分かるまいと固く心を閉ざし、うごめく真っ黒な感情をノートに向かって書きなぐる日々が続きます。

わたしなんて生まれてこなければよかった

普通の生活に戻らせてください

もう辛いのは嫌

人生をやめたい

死にたい

日常生活すらままならなず、もう勉強どころではありません。順位が下がっていく試験結果を手にするたびに、勉強でしか自身の価値を測ることができなかったわたしは、自尊心を失っていきました。

わたしなんて産まなくてよかったのに!!!!

自分が嫌いで惨めで、母親に八つ当たりをしたこともありました。精神的に追い詰められたわたしのSOSは歪んでいて、心の奥に隠された気持ちを言葉や態度で表すことができません。

もう学校は、辛くていきたくないんだ。
ほんとうは、休みたいんだ。

友達がいなくてさみしくて孤独で、
誰も自分を分かってくれなくて。

自分でもこんな自分が嫌いなんだ。

お母さん、そんなわたしを受け入れてもらえないかな。
そんなわたしでも愛してくれないかな。
こんなにダメなわたしだけど、これでも1年間ずっと苦しみに耐え続けてきたんだ。
「よく頑張ったね。偉かったね。」って言ってもらえないかな。

本来持っていた明るさや朗らかさが消え、日々苛立っていたわたし。母もわたしと同じように、辛い思いで毎日を過ごしていたに違いありません。

学校に行かなくなると、寝たいだけ眠れる生活になったので起きるのは正午近く。無気力で何も手につかず、部屋の中は足の踏み場もないほど散らかり放題でした。

気分が安定しているときは無感情で、ベットの上に寝転がって天井をぼーっと眺め、落ち込んでいるときは自身の境遇や環境を恨みました。自分の状況を受け入れられなかったために、他者に責任転嫁をしていたのです。

一方、みんなと同じように学校へ通うことができない自分が、どれだけ無価値な人間であるかを思い知らしめ責め続け、自己否定の渦の中でもがき苦しんでいました。

訪れた転機と人生のやり直し

 学校に行かなくなって数ヶ月たった頃、転機が訪れます。不登校向けに留学支援をしている会社があることを知った母は、わたしにこう提案したのです。

海外に行ってみない?

数ヶ月の期間、無感情か負の感情でいっぱいだった心の中に風が吹いたのを感じました。

英語は全く話せなかったけれど、中学時代からなんとなく胸に抱いていた「留学」への憧れ。もしもわたしが「留学」したら、ダメな自分を変えられるかもしれない。人生を挽回できるかもしれない。

現地の高校を卒業すれば、高校資格と国内の大学受験資格を得られる場合があることを知ったわたしは、行き詰っていた現状から脱却したい一心で提案を受けました。

それは決して、語学向上のためや広い視野を身につけるためなどではなく、自尊心も自己肯定感も失ったわたしが、新しい自分に生まれ変わるための人生のやり直し。まずは1ヶ月の短期留学で、海外へと旅立ちます。

わたしを受け入れてくれる人の存在で、自分自身も受け入れられるように

現在、社会人になって1年ほど経ちました。海外の高校を卒業し、大学を入学・卒業した後にです。留学した先で、IBSの症状が治らず帰国したくてたまらなかったり、大学の講義中、そして会社員になってからもIBSの症状は現れました。

緊張や不安のループを断ち切れるようになった今は、症状が出ても重症化することなく、気づいたら治まっています。今後もひょっこり現れてわたしに挨拶をしては、すぐにどこかへいくのでしょう。

4年ほど前まで、親しい人以外には不登校の経験をひた隠しにしていました。原因を伝えることが恥ずかしいからでもありますが、不登校だった過去や自分自身を受け入れることが完全にできていなかったからです。

自身を受け入れられるようになっていくのは、大学でとある人に出会ったことがきっかけです。

その人に初めてお会いしたとき、ある直感がはたらきました。わたしが不登校児だったと話してもその人は、反応に困ったり態度を変えたりしない気がしたのです。案の定、わたしが話しているときに特に驚くこともなく、発せられるあたたかい言葉と本心が一致しているように感じました。

過去の自分や肩書きに囚われず、目の前の今ここにいる自分を見てくれる人がいる。

その姿勢や眼差しは、とても温かく居心地がいいものでした。

不完全だけれど、そんな自然体のわたしも愛してもらえる。わたし自身を見ようとしてくれる人に出会うたび、自分の特性や自分自身そのものを、愛でることができるようになっていきました。同時に、過去の自分や体験が癒やされ、心の奥底に隠していた昔の古傷が薄くなっていったのです。

不登校を経験したから、ありのままのわたしで生きていく勇気をもらえた

不登校をきっかけに、わたしの人生は素晴らしいものになりました。不登校にならなかったら経験できなかったことがあり、出会えない人々がたくさんいたからです。

だからといって、不登校万歳と言いたいわけではありません。

中学時代と同じように、楽しく充実した青春時代を過ごすことができたとしたら、どれだけ幸せだったろうかと思います。

絶望の次には希望がある。誰にだって、いいことも悪いことも両方起こる。私はそう信じています。

ただもし、これから先に絶望だけの人生が待ち受けていたとしても、人生は生きるに値すると思えるのは、ありのままのわたしで生きていく勇気を、不登校をきっかけにもらえたからに違いありません。

みんなと同じようにできなくても大丈夫だよ

高校生のあの頃のわたしを、やさしく抱きしめてあげたいです。