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いじめや人間関係の問題はなかった
私が不登校になったのは、中学2年生の夏休み明けでした。
当時は、自分自身も不登校になった理由は分かりませんでした。当時の私は、とても緊張しやすい性格で、授業中はずっと緊張していました。思春期特有の「自分が他人にどのように見られているのか」を気にするようになったり、母との関係や家庭での様々な出来事があり、当時の私の周りには不登校に導いてしまうような要因がいくつも潜んでいたのではないかと思います。

大人になってから不登校になった理由を考えた時「緊張しいな性格」が要因の1つなのではないかと思っています。緊張しやすくなったのは中学に入ってからで、緊張の原因は、小学校と中学校の環境の違いでした。
私が通う小学校はとても良い雰囲気で、自由に発言することができる空間でした。ただ中学校では生徒の人数も増えて、学校そのものの雰囲気も変わったように感じました。成績が明確にわかるようになったこともあり、それが大きな環境の変化だったように思います。私の場合は、いじめもなく友人関係も良好だったので、人間関係の問題から始まる不登校ではありませんでした。
ひとり親の母に、あるとき変化が訪れた
私のことは母がずっと1人で育ててくれていて、二人三脚の人生でした。私の母は精神的に強いほうではなかったので、私が母を支え、母のために生きるという構図がいつの間にかできていました。

実は父親の代わりを叔父さんがしてくれていて、よく様子を見に来てくれていました。ですが、そんな父親代わりの叔父さんが突然亡くなり、そこから母との親子関係も悪化。私は叔父さんの死の責任を感じるようにまでなりました。
ある時「私はこれからも母のために生きていかなきゃいけないのか」と、思春期と共に母への反発心を持つようにもなりました。そして学校に行けなくなったことがきっかけで、激しい喧嘩も以前よりも増えるように。そんな私は、母の悲しそうな表情やしんどそうな表情を見ると、イライラしてしまい母に当たるようになりました。当時は、私も母もこの苦しさを誰にも話すことができずにいたんです。中2、3の頃には、全く外に出ず、「誰とも関わりたくない」「もう消えちゃいたい」みたいに思っていた時期もありました。そうしている間に、母は勤め先の心療内科で、先生にお話を聞いてもらうようになり、その頃から母に変化が訪れました。
不登校になった当初、母は私を無理やり引きずるように学校へ連れて行っていました。でもその母がある時、ベッドに寝ている私に近寄ってきて「今まで学校に無理に行かせようとしてごめんね」と謝ってくれたんです。「無理に行かなくていいから。さっちゃん(私)の好きにしていいよ」と言われ、その時から母との会話が増え、親子関係が良くなっていきました。
母が吹っ切れたことで、私の罪悪感がなくなり、心が軽くなったのを覚えています。お互いに波もあったりしたけど、時に休みながら、日常的に雑談や会話をし、笑顔も段々と増えていきました。
もしも今、あの苦しかったときに戻れるなら、母には「好きなことして毎日楽しんでおいでよ」と声をかけたいなと思います。不登校当時、母に笑ってほしかったからです。母が悲しんでいるのを見ることは、私の罪悪感を生むことにつながっていたから。私のことを気にするより、自分自身のことを気にしてほしかったんですよね。
ゴスペルが私の居場所に

不登校になった当初は自宅で1日中ずっと眠る生活を送っていたのですが、いつしか起きている時間が長くなり、本や歌に触れるようになりました。私が歌を好きなのを知っていた母が、ある時ゴスペル教室に誘ってくれたんです。正直、外に出るのはとても怖かったのですが、大好きな歌に惹かれて一歩踏み出しました。これがきっかけで、外に出れるようになって外食もできるようになりました。
ゴスペル教室にも慣れてきた頃、母から予備校の資料を渡されました。最初は嫌でしたが、一回だけという約束を作り、行くことに。その予備校には女性の校長先生がいたのですが、私の予想に反してとても良い人でした。
良い人と言いますか、初めて出会ったタイプの大人でした。(笑) 最初に会った時から「きゃー、よく来てくれたね!」と迎えてくれて、「私、不登校なんです」と伝えても「不登校なの?大丈夫!大丈夫!」と声をかけてくれたんです。私のことを「とても可愛いね」と褒めてくれたり、私の気持ちや年頃の女の子のことをよく分かっている校長先生でした。その予備校は、校長先生だけでなく、他の先生もとても良い人達でした。
あ、ちなみに外出のきっかけになったゴスペル教室には母の知り合いもいたのですが、学校のことなどは一切聞かれませんでした。今となっては根回しされていたんじゃないかなと思います(笑)
高校に進学しないことを決めた私
塾には行っていましたが、その後は高校に進学しませんでした。もちろん高校のことは当時かなり悩みました。母は「好きにしたらいいよ」と私が決めた道を応援してくれていたのですが、私自身は高校には行きたいと思っていて。制服がめちゃくちゃ可愛い高校があってですね(笑) でも学校のあの雰囲気。クラスがあって、授業があって、想像したら「無理やろ」って自分で思いました。その気持ちを誰に話すでもなく、進学しないことは自分で考えて決めました。「名前だけ書けば受かるところもある」という話も先生から聞いてギリギリまで悩んだのですが、それでも気持ちは変わりませんでした。

その後になって、高卒認定のことを知りました。「高卒認定を取れば、大学に行ける」ということを教えてもらって「他の子と同じになれるのいいな」と。それで頑張って勉強して、高1の代の冬に高卒認定を取得しました。取得した後は塾を辞めて、アルバイトの掛け持ち。同級生が高校2、3年の頃のことです。
高校に進学しないことを選んで、中学を卒業してからはすごく自由でした。「自由の身になった」「なんでもできるんだ」みたいな感じになっていました。ゴスペルに参加することから始まり、外出もできるようになり、そのあと塾へ。そこで高卒認定を取得してアルバイト、と段々と一つずつできることが増えていったように思います。中卒後は、飲食と介護のアルバイトをしていたのですが、職場の人たちもすごくいい人たちでした。高校に行っていない自分のことを受け入れてくれる人ばかりで、「あ、中卒でも大丈夫なんだ」と思えるようになりました。
海外生活で気付いた「不登校って〇〇」
海外に行くきっかけは、高卒認定(大検)を取るために通っていた予備校の先生でした。「カナダの短期留学に行ってみないか」とご案内をいただいて、塾の短期留学で2週間くらいカナダへ行きました。そしたら異世界感が楽しくて。そのあと「もっと自分の知らない世界を見てみたい」と思って、アルバイトでお金を貯めてニュージーランドに1人で行きました。ニュージーランドは3週間ぐらいの滞在でしたが、飛行機のチケットだけを取って、宿も決めない行き当たりばったりな生活でした。私は英語も話せませんでしたし、母はめちゃくちゃ心配していましたよ(笑)
ニュージーランドでは、その当時私は未成年ではなかったのですが、向こうの法律ではお酒やタバコがまだ買えない年齢でした。ドミトリーと呼ばれる場所で、みんな集まって一緒に過ごしていることが多かったです。その日に出会った人達で食べ物や飲み物を買い込んで、夜中にワイワイ過ごすみたいな。ある日本人留学生は「将来外国で働きたいから」ってアルバイトを現地でしていたり、ある酔っ払いのおじさんはベロンベロンになりながら「人生好きなように暮らすんだ」と言っていたり(笑) そこでいろいろな人の人生をうんと聞かせてもらえたのがすごく思い出に残っています。もっと自由に生きていいんだと思うことができました。

今、私は不登校支援の取り組みもしているのですが、当時の経験が大きく影響しているなと思います。学校に行くかどうかというのはちっちゃい話だなと気づいたんです。人生って長いですし、本当にいろいろな道があります。海外生活では、自分の人生を自分で考えて好きに選んだ人と関わることが多かったので、あそこで学校行くかどうかがちっぽけだなと気付きをもらいました。
高校に進学しなかった私が専門学校へ
海外渡航後は日本に戻り飲食店でのアルバイトの生活へ。20歳の頃にそこで正社員になりました。正社員になるのに特に資格も必要なかったですし、現場で積んだノウハウがあれば十分でした。
実は私、周りとは1年遅れで大学の保育科へ進学しているんです。でも学校という特有の雰囲気が合わず、2ヶ月で中退してしまったんですよね。それでも保育士の資格を諦めきれず、29歳の時に保育の専門学校に入学しました。
専門学校に入ってからも正直、嫌な雰囲気は感じていました。ただ続けられたのは、大人になって視野が広くなったからなのかなと思います。学生の時は、学校にいるとそこだけの世界でした。でも専門学校に通っている時は、クラスの子たちも20歳になるかならないかみたいな子たちが多く、私とは年齢差もありました。専門学校に行きながら仕事を3つぐらい掛け持ちしていて、学校以外の時間がすごく充実していたのでそれが息抜きになっていたのかなと思います。”里親”になりたいと思って専門学校に行ったので、自分の立てた目標がもう入学した時にはあったんです。その目標があったから卒業まで続けられたんだと思います。
保護者のみなさんは、どうか自分自身を大切にしてほしい
今も悩んでいる親子にとっては変なことを言うかもしれません。私は、不登校になるのはむしろ正常なことだと思います。決められた通りにしないといけない学校生活に違和感を抱くことは正常なことですし、自分が感じる身体や心の違和感、SOSの気持ちを大切にしてほしいなと思います。

それから不登校は実はチャンスでもあります。不登校になるということは、その先のことを全部自分で決めないといけなくなります。その度にすごく悩みます。でも「自分で決める力」を身につけるチャンスだと思ってほしいです。親御さんは、お子さんが進む道を応援してあげてほしいと思います。私自身、海外での生活はもちろん日本でもアルバイト先などさまざまな場所でいろいろな人生を歩んでいる人と出会って、そのおかげで「やりたいことをやってもいいんだ」と思えるようになりました。多くの大人との出会いが私を大きく変えてくれたように思っています。
私も経験者だったのでわかるのですが、不登校の子どもが見ている世界はとても狭いです。自分と家と家族と…。私も母を見てきているので、子どものためを思う親の気持ちはよくわかるつもりです。「できるだけ見ていてあげたい」「何かできることはないか」と、極力子どもに関わろうと思うんだろうと思います。でもまずは自分自身を大切にしてほしいです。親自身が壊れてしまったら元も子もないので。
私は母が外とつながるようになって、それで楽しそうにして帰ってくる姿、母が変わっていく様子を見て、「外の世界は怖くないのかもしれない」って思えるようになった気がします。私が外出しなかった当時、外の空気を運んでくるのは母だけでしたから。子どもとちょっと距離をとって、子ども以外のことに目を向けてみてほしいです。友達と会う時間を作ったり、外出して1人の時間を過ごしたり、そういうことが巡り巡って子どもに良い影響を与えることもあるのかなと思います。親子共々、視野が狭くなってしまうのは良くないので、学校だけにこだわらず様々なことに目を向けてみてほしいです。
この記事の主人公をご紹介

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編集後記(植松さん:大学生インターン)
今回太田さんのお話を聞いて、私自身に不登校の偏見があることが分かりました。普段不登校についてのニュースを見ると、取り上げられている不登校の原因は「いじめ」が多くありました。私の中には自然と、不登校=いじめという構図があり、よく考えれば不登校の要因はたくさんあるのに、それに気づかなかった自分にショックを受けました。
実は私も不登校を経験した当事者です。私は不登校に重いも軽いもないと思っていますし、「不登校になる理由はこれ」という明確な理由もないと思っています。本当に人によって様々です。不登校になった最初の頃は「どうしたら良いのだろう」と、親御さんもとても悩むと思います。上手くやろうと、無理に関わろうとしなくて良いのだと、太田さんのお話を聞いてそう思いました。
不登校は、子どもだけでなく親も成長できる機会になりうるのだと私は感じました。最初からポジティブに考えてくださいとは言いません。いつか不登校が良い経験だったと思えるような、そんな出来事にしてほしいと私は思います。そのためには、人に頼ること、息抜きすることが大切だと思います。この記事が今も悩む親御さんにとってヒントや息抜きになっていたら嬉しいです。私は、みなさんのことを陰ながら応援しています。少しでもみなさんが笑顔で元気でいられますように。ここまで読んでいただきありがとうございました。